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『俺たちに翼はない』感想 ——歪な現実を生きる

俺たちに翼はない』 感想

 

 皆さん、『俺たちに翼はない』というゲームはご存じでしょうか。この作品について、内容を知っている前提で書いている部分もあるため、多少のネタバレや、説明なしにはわからない部分もあると思うので、嫌な人は読まないでください。ただ、ネタバレを食らったからといって、プレイする価値がなくなるような作品ではないと思います。

 

 

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project-navel.com

 

 『俺たちに翼はない』は、2009年に発売された、ビジュアルノベル(ノベルゲー/ギャルゲー/エロゲ)です。非常に有名なタイトルで、アニメ化もされています。そんなゲームを今更プレイしたので、感想を述べようと思います。

 

 「羽田タカシ編」「千歳鷲介編」「成田隼人編」「伊丹伽楼羅編」「羽田ヨージ編」と5つの物語で構成されています。本来は「羽田ヨージ」一人の話なのですが、過去の記憶から逃避するために多重人格を作り出して、5人の人格が一つの体に同居している状態になっています。各ルートは、それぞれの人格の視点からみた話が語られています。

 

翼のない”俺たち”

 この作品は、このような序文から始まります。

 

ほら、空ってどこにでも繋がってるよね。
どこへ逃げたって、敵はその白い翼でどこまでも追っかけてくるんだ。
だから翼のない彼らは、どこにも繋がってない空を求めていた。

 

 この作品では、主人公やヒロインに目立った欠陥があります、または、ありました。それは、凡そ、現実から逃げていることが問題の原因、または、それ自体が問題となっています。「翼のない」登場人物らは、そうした、「どこまでも追っかけてくる」現実から逃げるために「どこにもつながっていない空」を求めていたんですね。

 これは、現実の生活にもいえることです。完全に孤立できる場所はなく、否応なしに、現実は迫ってきます。だから、誰しもそんな現実から逃避できる場所が欲しいのではないでしょうか。

 この作品ではルートが入れ替わる際に、各人格から読者に語り掛ける形が採られます。読者もこの分裂した人格の一部としてとらえられています。タイトルの「翼がない”俺たち”」というのは、作品の登場人物の枠を超えて、読者、あるいはもっと広く、この世に生活している人のことを指していて、誰しもがそういった現実から一人飛び立って独立することはできないことを表しているのだとも思います。

 

”逃避”は悪いことなのか

また、序文では、こういったことも語られます。

 

これは"たとえば"の話だけど。僕らが君に語るのは、たとえばそんなメルヘン。
それはきっと何処にでもある、ありふれた物語。

 

この作品は「例えば」の話で、ここで語られるのは、「ありふれた物語」なんです。

 

 主人公「羽田ヨージ」というキャラクターは、自分の辛い現実から目を背けて、沢山の人格を作り出しました。「現実から目を背けている」というのは聞こえは悪いかもしれません。しかし、「羽田ヨージ」は、個室に隔離されているような精神状態だったにも関わらず、そうして、別の人格を形成していくことで、(別の人格になってはいますが)社会性をある程度取り戻しています。”逃避”は本当に悪い結果のみをもたらすのでしょうか。

 「辛い現実から目を背けたい」というのは、誰しもにいえることなのではないかと思います。生きているうえでは、自分の思い通りにならないことの方が多いのだと思います。みんながどこかに生きづらさを抱えながら過ごしているのだと思います。時には、自分に耐えられない不条理な出来事もあるでしょう。そうしたときに、心を逃がせる場所を用意しておくことは大切なのだと思います。そして、それが、このような「ビジュアルノベル」、ひいては小説を読む一つの理由なのではないかと思います。いくら辛い場面に直面した場合であっても、その作品の世界観に入り込んでいる間は、そこに集中して、辛い現実は忘れることができると思います。そうして、いざ、現実に戻らないといけないときに、気持ちを軽くできるのではないか、現実に向き合うための、勇気を自分に与えてくれるのではないか、そう思います。そうした”逃避”を肯定してくれているように感じました。

 

現実と向き合う

 登場人物は、それぞれ問題を抱えていましたが、各ルートではそれに向き合ってい、前に進みだしました。「羽田ヨージ」は、自分の母親に重傷を負わせた過去と向き合い人格の統合を成し遂げました。「渡来明日香」は、イマジナリーフレンド「明日夢」などいないのだという現実を受け入れました。「玉泉日和子」は、自身の小説の2作目が売れなかったという現実に向き合い、3作目を出すことができました。「鳳鳴」も、自身の逃避していた学校に通ようになることで、友好的な関係を広げていくことができるようになりました。翼なんてものはもっていない”俺たち”でも、進んでいくことのできる道はあるのです。

 

 逆に言えば、「”現実”に向き合わないこと」は悪なのだと思います。

 サブヒロインのルートを除くと、この作品のバッドエンドは、「羽田タカシ」が現実からの逃げ場としていた「グレタガルド」から戻ることの出来なくなってしまうというものです。「羽田タカシ」は、虚実を綯い交ぜにして生きていくことを余儀なくされ、自分でも理解していないままに、妹に手を引かれながら精神科に通い詰めることになります。

 これは、「羽田ヨージ」がいつまでも現実から目を背け続けるといった選択をした結果です。”逃避”は現実から目を背けるためではなく、向き合うために行うものなのだということを感じました。

 

二者択一を求めない

 この作品は、メインヒロインのそれぞれにtrueENDがあります。そして、4人中3人は、本来の「羽田ヨージ」の人格以外の、他の人格がメインの人格となって終了しています。しかし、多重人格設定で、本来の人格に1つに戻せなかったら、それは本当に良いENDなのでしょうか。

 この作品は、何度も言うように、各人格によってルートが分かれて、それぞれの目線から見た生活が語られます。それぞれの人格で、同じ人物と関わっているにしても、全く違う見方になったり、また、それぞれの人格の交友関係は別々なので、別の人格が憑依している際に、違うコミュニティの人間からいぶかしがられたりします。それぞれの登場人物によって、同じものを見るにしても感じ方が違うということなのですが、それは、決して間違っているのではなく、それぞれ正解なのだと思います。作中でも、

 

正解はない、どれもが正解だ、おまえの正解はおまえが決めろ。だがまだ決めるな、まだ残ってる、まだ可能性は全部じゃない。

 

とあります。現実は、自分で決めていいんです。そのため、例え、元の人格に統合できなかったとしても、外見的には問題が解決していないかに見えても、それぞれの目線から見ればそれで良いのだと思います。それが、現実を生き、選択するということなのではないでしょうか。大切なのは、正解、不正解で割り切ることなのではなく、それぞれ、今の自分にできることを精一杯やっていくことなのだと思います。

 

 

終わり

 読んでくれた人はありがとうございました。自分の思考の整理を兼ねて、メモ的に書いた側面もあるのと、そこまで『俺たちに翼はない』の細部を確認しながら緻密に書いたわけではないので、粗があるかもしれませんが、この作品は面白かったです。